“前駆期”

1995年頃

高校2年生

友人から、最近なにかあったの? と聞かれることが何度かある。なにかあったら相談してね、と言われており、これを思い出して「事件」後の相談となった。

1997年頃(18歳)

(当時不定期につけていた手帳のメモからまとめたと思われる)

春頃から孤独感、死、自分への殺意(意識上のみ)の記述があり。

一人で夜、わけもなく悲しく、泣き続ける。

「私と違う感覚」が心に訪れる。

昔のこと、記憶をよく思い出している。

懐かしさにとらえられる。

1998年(19歳)

夏頃

「自分の右斜め前のほうに奈落の底が空いていて、それ(奈落の底)を見ている」感覚を持つようになる(イメージであり、実際には見えていない)。

専門学校時代の友人と一緒にいても、ぼーっとしてうわの空のこと多し。

無感動。笑えない。

友人にもそのことを通学時聞いてもらっていた。

 

当時インターネットで精神科医の運営していた自助メーリングリストグループに入っており、そこでも相談を持ちかけていた。

インターネットで知り合ったKという人間に(初めて見たサイトはまったく別のもの)『自殺について真剣に考える掲示板』というものを運営しているから見にきてと誘われる。

その人間に会いたいと言われ、ポケベルに一日何度も彼の電話番号が送られてくる。

その時点でなんらかの「怖さ」を感じていたが、上述の高校時代の友人から人間に対してもっとアクティブになれと言われたことを思い出して(理由づけ)その人間と家のテレビで「耳をすませば」が放映していた時に一度電話をした。

彼のホームページのメーリングリストに登録する際に「住所、氏名、電話番号」を取られている。

インターネットはなにかちゃんとした人が許可をもらってやっているものだと思っていたこともあり、相談を聞いてもらいたい思いもあり(希死念慮はない)、その人間と会う。

 

会うだいぶ前に送った私の書いた小説のことをその人間は覚えておらず、今度送ってよ、と言う。内心(読んでないんだな)と思う。

雨が降ってきたのでカラオケ店に避難する。

以下は省くが、膝を触ってきたり、隣に座ろうと言ってきたり、言動は二人きりになってからあやしくなっていた。

私は相談の内容を話し(家族が父親の悪口ばかりを言っており悲しい)、「泣いてもいいよ」と言われて頭を抱えられるが、どこかぼんやりしておりとても冷めていて、本当にそれが悲しいのかな、茶番みたいだな、と考えている。

タバコを買ってきて欲しいと頼まれ、席を外す。

以下省く。

結果、半分意識を失くし性被害に遭う。

 

前述した年表のなかで、友人二人に相談しに行った際「小説を書きたいなら欲を抑えなさい」と上記の高校時代の友人に言われる。私が性欲で動いている前提になっており、今思い返してもその子の頭がどうかしているのだが、私は二度目のかなりのショックを覚える。

一度目はそれ以前に、学校帰りに恐怖感で具合が悪くなり、学校の近所に住む彼女にはじめて電話をした際「私なら絶対について行かない」当時連続して起きたテレクラ睡眠強盗死事件に掛けて「薬でも入ってたんじゃない?(笑)」と言われる。この瞬間から私の世界は大きく壊れ始める。

 

もしこの被害がなかったら私は順当に精神病の世界に突入していただろう。

親は精神病などこの世に存在しない、というより「自分の子供なのだから」そういう頭になるはずがない、と、思い込みと忌避感覚が強く、相談場所がなかったことや、診察にこぎつけるまでかなりの時間を要した原因にもなった。

「あんたは頭の病気じゃないんだからそんなところに行く必要がない」

まだ被害の前で不定愁訴が食道の左側が痛むというものだった際に、心の問題だと感じていた私が、精神科か心療内科にかかりたいと訴えた時に母に言われたこと。

(保険証が持ち出せないという理由と、当時は親の許可を得なければ、隠し事はいけない、と思っていた)

台所や、祖母の通院だったか、バス停で、そう言われたのを昔はよく思い出した。

 

自身が病気になって初めて母は私と話したいと言いはじめたが、バイトが忙しいと言って姉に任せていた。その頃は「今更何を」という気持ちだった。

 

※被害のことは終世話さなかったが、母の晩年は母の話をずっと聴いていた。

 それを聴くために実家帰りをしていたようなもので、私が姉の爆弾(地雷)発言などでパンクするまで数日泊まって、母の話を聴いていた。

 

22歳頃、母のお客様の紹介だからという理由で東京武蔵野病院に行った際、日本にはPTSDなんて存在しないと言われつつ、突然の腹痛に襲われるまで(内科に回してもらった。異常なし。直前に冷たい牛乳を飲んでおり、それから冷たい飲み物が苦手になる)、半年以上は診て頂いていたと思う。

 

かかりつけの内科の先生に順天堂を紹介して頂き、そこではPTSDの対応をされていたが、曜日の変更の際に医師が変わって話がうまく通じにくくなり、薬の副作用の眠気が仕事に影響するので通院を中断。

(薬が効くまでに1ヶ月ほどかかることもあるという基礎知識を当時は教えてもらえなかった)

 

その後体調がだんだんと悪化し、唯一の福利厚生があったバイトを辞める。

 

次のバイトをしているなかでフラッシュバックが酷くなり、2年ぶりくらいに通院再開。

PTSDと言うと話がこじれるので基本的に症状しか言わないことに。

嘱託医の三人目の医師が心理検査を私に勧めて、アスペルガーの診断となる。